弘川寺桜の季節です、西行法師の終焉の地である弘川寺へ行ってきました。今回で3度目です。 満開というには少し早すぎたかもしれません。 でも、境内の『隅屋桜』は見事に咲いてくれていました。 弘川寺は天智天皇の四年、役行者によって開創され、天武、嵯峨、後鳥羽、三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来。 本堂を見下ろす場所に西行堂がありました。 西行堂は、江戸中期、西行を慕って広島よりこの地を求めた歌僧似雲によって建立されたそうです。 晩年の西行はこのあたりで起居し歌を詠み暮らしたのでしょうね。 西行は29歳で陸奥へ旅立ち、その後高野山に入り30年ほどを高野山で過ごし、この間に京都、吉野、四国などに足を向け、多くの歌を残しています。 また、西行は63歳のときに高野山から伊勢に移り1186年、西行は東大寺再建の勧進のため、再び陸奥に旅立ちました。 そして、1189年陸奥の旅から帰った西行はここ弘川寺に入りました。 願わくは 花のしたにて春死なむ その如月の望月のころ 翌年、西行は自ら詠んだ歌の通り、この地で73歳の生涯を閉じました。 文治6年(1190)2月16日(旧暦)。 奇しくも釈迦が入滅し、空海が入定した同じ日だったそうです。 如月の望月のころ…とは…、研究されていて新暦の3月29日にあたるそうです。 もちろんその日は、ここ弘川寺の桜も満開であったのでしょうね。 西行は、うらうらとした気持ちで死にたいと願って生きていたのだそうです。少しでも心に濁りがあるとそれは叶わない。 そして、年を重ね、 ”花よりは命をぞなお惜しむべき待ちつくべしと思ひやはせし” 命あればこそと、感慨に耽る西行。 いつしか弘川寺で、おいて行く一本の桜と自分の人生をかさねあわせたのかもしれませんね。 広場の片隅に似雲墳がありました。 西行庵跡です。 つつじが咲き乱れています。 この辺りはかなり高台になっています、見晴らしがとても素晴らしいのです。 実はこの辺りで、一人の方に出会いました。 その方は、西行法師の弟の末裔に当たる方でした。 西行法師は子供さんがいなかったので、弟さんの子孫の方が後を継がれているのだそうです。 今日お会いした方は、西行法師さんについて色々なことを教えて下さいました。 西行さんも武家であったとか。 そして、源氏と平家の間で政治的にご苦労されたとか…。 西行法師さんが桜を愛したのは、実は桜を思い人と重ねていたのだとか…。 西行法師さんは実は、情熱かであったとか…。 宇陀郡にある又兵衛桜の又兵衛さんは、実は西行さんと親戚だとか…。 もっともっとお話を伺っていたかったのですが、時間がなかったのでそこまでで御別れしました。 さすがに、西行さんのご子孫の方だけあって上品で素敵な方でした。 丁寧に色々教えてくださってありがとうございました。 このあと、河南の道の駅でお買い物をして帰ったのでした。 今日はサンチェを一つ買ったら二つおまけでくれたのでした。 とてもびっくりでした。 御店の方、本当にありがとうございました。 夕飯で食べたらおいしかったです。 良いお天気でしたが、桜にはほんの少し早かったかもしれません。 来週か再来週が一番綺麗かも知れません。 御近くへお寄りの方は是非そのころでしたらお立ち寄りくださいね。 きっと、凄く綺麗だと思いますよ。 ジャンル別一覧
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